闻黎明:中国近代文化と政治史における聞一多

( 2001 年 11 月 14 日 二松学舎大学における講演)

中国社会科学院近代史研究所 聞  黎明 著

二松学舎大学大学院 竹下悦子 訳

1946年は、中国の歴史が大きく動いた一年であった。この年の7月11日、中国民主同盟中央執行委員であり、七君として有名な李公朴が昆明で国民党に暗殺された。四日後の7月15日、また中国民主同盟中央執行委員の一人であり、西南連合大学教授の聞一多が昆明で特務に暗殺された。五日間に同じ場所で二つの謀殺事件が連続して起きたこと、特に長く西洋の教育を受けた聞一多が暗殺されたことは、社会の大きな反響を呼び起こした。中国共産党と左翼の人たちが続々と抗議を表しただけでなく、自由主義分子から国民党内部の何人かの上層部に至るまで、非常に大きな憤慨を表明した。

当時、国際世論もこの件で騒然とした。アメリカのコロンビア大学師範学院、ハーバード大学、ニューヨーク大学、アカデミーの教授、『ニューヨークポスト』、『クリスチャン』、『プロテスタント?マガジン』等の雑誌は、みな抗議を表明し、「このような暗殺事件は中国の悲しむべき内戦のもう一つの醜い要素になるであろう」とした。それは「この事件が中国人民を敵に回すばかりか、全世界の人々を敵に回すことである」からだ。アメリカの教授たちはさらに、国民党への援助を切り上げることを主張し、政府に厳しい批判を要求した。

国民党が中国大陸を統治した22年間の間、暗殺されたものは一人に止まらない。しかし、聞一多の死ほど国際的な抗議に広がったものはほとんど無かった。それは、明かに彼が詩人であり、学者であり、民主の闘士であるという、三つの要素を一身に引き受けた人間であったことと密接に関係する。

一、 詩人:中国新詩の革新者

1899年11月24日、聞一多は湖北省キ水県の由緒正しい読書人の家に生まれた。1912年、アメリカに対する賠償金をもとに建てられたアメリカ留学予備校、清華学校に入学し、アメリカ式の近代教育を受け始める。1919年、五四運動の中で文学を国民性改造の道具とする思想に影響を受け、文学活動を志す。聞一多の中国近代文学史のなかに占める比較的重要な位置は、彼が新詩の発展の道程と文学理論の上で、創造的な貢献を成し遂げたこと、また中国新詩史の中の第二の流派――新詩格律派を創り出したことにある。

周知の通り、中国は「詩」の国である。所謂「文」はみな「詩」の基礎の上に発展してきたものである。詩歌のなかに蓄積された中国の文化と伝統、それは審美観?芸術心理?鑑賞態度などを含めて全て、他のいかなる文芸形式よりはるかに深く厚い。聞一多は中国と西洋の文化がぶつかり合い交じり合った変革の時期に身を置いた。この時代の特性を創作の世界の中でいかに融合させるかは、当時、中国の全ての文化領域における共通した使命であった。「五四新文化運動」の時期、白話運動は大きな発展を遂げた。そして伝統的旧詩から完全に袂を分かった新詩は、白話文学を側面から助けただけでなく、文学革命の創作と実践の面でも重要な突破口になった。胡適の『嘗試集』、郭沫若の『女神』は、その傑出した代表作である。

しかし、早期の新詩は、新しい創造の精神を追求することはできたが、形式の上では詩歌の特性を生かした形式を確立するには及んでいなかった。そこで、最も早い時期の新詩はほとんどが話し言葉の自由化?散文化への趨勢に向かっていた。当時、新詩の詩壇において主流を占めていたのは自由体の新詩だったからである。しかし、新詩とて畢竟は芸術の一つである。そこで五四運動の時期、中国新詩の発展は、形式と内容とを厳格に結び付け統一するという任務に直面していた。聞一多と徐志摩に代表される新詩の規範化の主張は、まさにこの新しい芸術形式と美学原則を確立するという社会的要求を反映していたのである。

新詩の規範化に対する聞一多の初めの主張は、新詩が特定の形式を具える必要があるかどうかという問題についてなされた。1921年5月、彼はある論文の中で「美しい魂は美しい形式を持たなければ、その美しさを失なってしまう」と言い、また、このような「美」は中国の伝統的旧詩の中にその手本を求めることができるとした。更に説明を深める為、1922年3月彼は新詩についての重要な論文『律詩の研究』を完成させた。その内容は、中国古代の律詩の特徴と規則を分析?総括することに重点を置き、それによって古代律詩のなかに形式を含めた多くの栄養分があることを証明した。これらの観点はまだ初歩的なものではあったが、しかし彼が新詩の創作をはじめた初期から、新詩が成功するかどうかが、その依って表す形式に決定される部分があることに気づいていたことを物語る。

1922年の初夏の時期まで、中国の詩壇では詩集(即ち胡適の『嘗試集』、郭沫若の『女神』、兪平伯の『冬夜』、康白情の『草児』)が、新詩の創作における模範となっていた。しかし、兪平伯?康白情は当時の多くの詩人たちと同じように、新詩の革新は自然で修飾を加えない自由詩を書くことにあると考えていた。このような視点は当時の反封建的潮流ととても合致した。そこで多くの人が雕琢を加えない詩が良い詩であり、雕琢を加えた詩は良くないと考えた。聞一多はこの考えに反対した。彼は「白話詩とてまずはじめに詩でなくてはならず、白話であるかないかという問題はむしろ二の次だ」と考えた。彼が『「冬夜」評論』を書いた目的は、彼の新詩創作に対する見解を表明することにあった。この論文は後に遠く日本にあった郭沫若の称賛を得ることになる。

郭沫若『女神』に対する聞一多の評論は、中国文学史の中でもとても高い評価を得ている。彼はこの詩集の時代的意義を肯定すると同時に、それが形式と精神において「ヨーロッパ化されすぎている」ことを率直に指摘した。彼が特に強調したのは次の点である。即ち「我々は自分たちが中国人であるということをいつでも自覚していなくてはならない。私は中国の新詩を書きたいと思うが、中国の新詩とは、西洋人が中国語を話すものであってはならないし、また私の作品が西洋の詩を翻訳したものだと誤解されてもいけない。」更に進めて、「私は新詩というものはまずもって新しくなければならないと考える。中国固有の詩より新しいというだけでなく、西洋固有の詩よりも新しくなければならない。言い換えれば、それは単純な本国詩であってはならないが、しかし本国の色合いをとどめておかねばならない。また、単純な外国詩であってはならないが、外国詩の良いところは存分に吸収していなくてはならない。それは中国と西洋との芸術が結ばれて生まれた中外芸術の落とし子でなくてはならない。」聞一多の一生は、その全てが中国と西洋の文化を結び合わせようとした不断の努力であったと言うことができる。

1922年8月、聞一多はシカゴ美術学院に留学し西洋美術を専攻した。シカゴはアメリカの文芸復興運動の策源地であった。聞一多が来た時には、文芸復興運動は下火になっていたとはいえ、文芸理論の方は成熟に向かっていた。そのうえ文芸運動を起こしたり参加したりした多くの重要人物がまだこの地に生活していた。そこで、聞一多はここでアメリカの最も強い文学的空気を呼吸したばかりでなく、アメリカの文芸復興運動の最重要人物、即ちハイト夫人、イマジスト詩人エイミー?ロウエル、及び自由体詩『煙と鉄』の作者カール?サンドバーグ、雑誌『ポエトリー』の編集長ハリエット?モンロー等と、直接に間接に接触をもった。こういった人々の作品と理論は聞一多の注意を引き、彼のこの時期の詩作?主題には、人間の活力を強調し、人の情熱を称揚するという西洋の詩との類似が見られる。そして詩作の方法においてもまた、西洋詩が提唱した意識的な技巧が特にはっきりと見られる。

1925年夏、聞一多は帰国した。帰国後も彼は新詩の形式を模索し続けた。1926年春、彼は志を同じくする若い詩人たちと、『晨報』副刊編集長徐志摩の援助のもとで、『晨報?詩鐫』を共同で創刊した。聞一多は『晨報?詩鐫』に一連の問題作を発表したほか、有名な論文『詩の格律』を発表し、ここで始めて、詩歌の力は音楽美?絵画美?建築美の中に表現されるべきだという「三美」理論を打ち出した。まさにこの「三美」理論の正式な提唱と、聞一多及び友人たちのこの理論に導かれての実験作によって、中国文学史上に自由派を継ぐ第二番目の流派――新詩格律派は形成されたのである。

これとは別に、聞一多の詩歌の中には愛国的感情もまた際立って多く歌われている。『太陽吟』、『洗濯の歌』、『目覚めよ!』、『七子の歌』、『私は中国人』等は、長く歌い継がれている。朱自清は嘗てこういったことがある:抗日戦争以前の詩壇の中で、「ほとんど聞一多だけが唯一、声をあげて愛国を歌った詩人である、」と。1999年、アモイが中国に返還されたとき、彼の『七子の歌?アモイ』の歌が中国全土に響いた。新聞はこの歌がアモイを中国に迎え入れるにふさわしい唯一のテーマ曲だと報じた。

二、 学者:中外文化を融合した学術界の新星

1925年に留学から帰国して以後、聞一多はずっと大学の教員であった。北京芸術専科学校、武漢大学、青島大学で主任教務長、文学部長などの職を歴任した。また国立政治大学では学生部長、中央大学では英文科の主任も務めた。1932年、母校の清華大学に中文科の教授として戻り、その後7年間中文科の主任を務めた。

聞一多は47年の生涯の中で学業に励んだ以外は、その他の大部分の時間と精力を学術の領域に注いだ。新しく出版された12巻本の『聞一多全集』は、一巻が書信、一巻が詩歌、一巻が絵画であるのを除いて、その他はすべて学術著作である。彼の学術研究は、そのほとんどが中国古典文学をその対象とした。まず最初に、彼の研究対象は唐代文学であった。その次に唐詩から遡って中国文化の源である『詩経』に移った。それと同時に、『詩経』と同時代の『楚辞』もまた力を注ぐ対象になった。この他に、『周易』、『荘子』、神話伝説、古文字、樂府などの方面にも多くの研究成果がある。『聞一多全集』をめくってみると、その目次からだけでもその累累たる業績を知ることができる。

聞一多は幼年期には伝統教育を受けたが、成長してからは西洋文化を学んだ時期が長く、国外の先進的な学問方法をよく理解していた。このことが彼の研究手段をとても斬新なものにした。例えば、素材の処理において彼は清代の考証学を運用し、にもかかわらず前人の定説をみごとにくつがえした。『詩経?新台』の中の「鴻」の字は、従来「鴻鵠」の意味で解釈され、この詩は魚をとる者が網を投げたが魚は得られず鴻を捕まえた、という内容で考えられていた。理屈からいうとこれは良い事であるはずなのに、なぜこの詩には一種の懊悩が表現されているのだろうか。二千年来人々はこの問題について、通らない理屈を無理矢理通してきた。しかし聞一多は、考証の末、音韻上からこの「鴻」の字が、実は蝦蟇の別名であることを発見した。この詩の原義は、若い女性が想う相手を求めたのだけれども、見つけたのはなんと腰の曲がったセムシの老人だった、ということを喩えているのである。これに似た考証は他にも多くある。それは、未開時代の社会生活を理解する助けになるばかりでなく、長い間詩経を蓋っていた政治的教訓というベールを剥ぎ取る助けにもなるものである。

資料を重視することは学術研究の最も基本的要素である。聞一多はこの点において資料収集の徹底を特に強調した。彼は『杜甫』の伝記を書いている時に資料の不足を実感し、杜甫の交友?師弟関係の資料を重点的に集めた結果、後に360余人にのぼる記録となった。彼の『全唐詩人小伝』は、「小」とは言っているものの、累計60万余字に及び、406人の詩人を渉猟している。教育部の学術審査会の二等賞を獲得した『楚辞校補』は、古今の諸家の旧校を施したものだけでも65家、また歴代の諸家の楚辞に言い及んだ者及び文字を校正した者28家、そして論駁した者3家を引いている。

資料に対する識別眼は学者の基本能力を反映する。詩経研究を深めるため、聞一多は『毛詩字典』を編むことを計画していた。『聞一多全集』第11巻には、金文で書かれた『詩経』中の十数篇が収められている。現存の『詩経』は後世の抄本から木刻されたテキストであるため、その文字は書かれた古より遠く隔たっており、詩経が書かれた時代の様相を反映し難いものである。そこで彼は学生に『詩経』の中から一字を選び出し、各篇の中からその字をふくむ文を全て集め出し、語法と構造に照らしていくつかの類に分け、また音と形の両面からその用法と意味とを求めることを課題として課した。

聞一多の学術研究は、量が膨大であるばかりか、質も高い。『四千年の文学趨勢の鳥瞰』は、提要だけではあるが、個別の文化現象から着手し、それを広く引申して社会考察に至り、更には中国文学を世界文化という広い領域の中に置いて考察を加えるというアクティブな視野を打ち出している。彼の『文学の歴史動向』は、インド?イスラエル?ギリシャの零落した原因を分析し、それを彼らが「与える」ことにだけ勇敢で、「受取る」ことに臆病だったからだとした。中国がもし発展したければ、「受け入れることに臆さないだけでは不十分であり」「受け取ることに本当に勇敢でなければならない」とする。これは聞一多の社会観の発展を反映しており、後に彼が民主運動に勇敢に身を投じた思想の基礎にもなっている。

聞一多は『中国文学史』の構想をずっと暖めており、その体裁は「歴史の詩」或いは「詩の歴史」になるはずであった。学術研究は歴史という地点に帰結してはじめて、その運動、あるいは運動の中から現れてくる文化的魅力を明らかにすることが出来ると、彼は考えていた。もちろん、彼の研究成果も時代の制約を受けることは免れえなかった。現在それぞれの領域で彼を超える学者は少なからずいるであろう。しかし、彼の学問方法と精神とは時代と空間を超えた啓発力を持っており、学術の巨匠であった郭沫若?馮友蘭?朱自清らはみな一致して、聞一多の死を中国学術界の大損失であるとした。

三、闘士:民主運動の鼓手

中国近代史において、傑出した詩人や優秀な学者は多く出現した。しかし、聞一多の立場は独特である。この独自性は、彼が詩人であり学者であっただけでなく、さらに中国民主事業のために身を献じた闘士でもあったことにある。

聞一多はとても性格のはっきりとした人であった。彼は食事の時、食卓に必ず一皿の塩を用意し、料理が苦いほど辛くならないと味がした気がしなかった。お茶を飲む時は、一杯にほとんど三分の一ほどもお茶の葉を入れて濃く出さないとすまなかった。また、一度自分で書斎を設計したことがあったが、それは四壁に黒い紙を隙間無く貼り、鴨居の上にだけ金色の枠を描き、まるでアフリカの黒人の女が足に金の足輪を嵌めているかのようであった。このような性格は生活に表れただけでなく、現実の中にも反映された。1921年、彼の清華学校卒業前夜、北京国立八校教職員の賃上げ闘争の応援に参加したことによって、「自動退学」の処分を受けたことがあった。その後、学校側はもしも反省文を書くのであれば留学を許可すると言ってきたが、彼は留学を犠牲にすることを惜しむことなく屈服を拒否した。

この性格は晩年に民主運動に身を投じた後、特に顕著に表れるようになる。1944年、中国の政治?軍事が深刻な危機に面した時、彼は象牙の塔を出でて声高く「打倒孔家店」を叫んだ。この年、彼はアメリカの副大統領ウオーレスに対して正面から国民党の政策を批判し、大人たちは青年に学べと呼びかけた。国民党の第五軍座談会の席では、軍の長官にこう言い放った:「討論すべきことなど何も無い。やるしかないのなら、非常時には非常手段をとるべきだ」と。このようなことから分かるのは、彼が詩人の情熱と学者の実直さとで社会問題に向き合っていたということである。

聞一多の腹蔵のない物言いと思想とは、すぐに国民党にマークされた。重慶政府が西南連合大学に彼の罷免を命じたという噂が流れ、延安の『解放日報』は短評『慰問聞一多先生』を発表するにまで至った。しかし、聞一多は屈服することはなかった。もともと政治組織に参加することに興味のなかった彼であったが、この時は中国民主同盟に加入し、その上一党専制に反対する積極的な戦士になっていた。1945年12月、国内外を震撼させた「一二?一惨案」が昆明に起きた。四人の青年が惨殺され、60余名の学生と教師が殴られ負傷した。その時、聞一多は大学の教授会議の代表であり、また教授会の書記でもあった。彼はその立場を利用して学生たちの闘争を支持し、学生の要求を決議するのに有利なように教授会を導くことに尽力し、他を以って代えがたい働きをした。

7月11日の夜、民主同盟の中央委員李公朴が昆明で国民党に刺殺された。聞一多はすぐさま抗議文の起草に参与し、声明を発表した。当時、人々は盛んにブラックリストの二人目は聞一多であると噂した。彼の家の周辺には一日中特務がうろついており、ある者は庭にまで入ってきて彼の服装を尋ね、ある女特務は家の中まで闖入して彼の妻を脅したりした。しかし、聞一多は白色テロを恐れず、奔走と主張を続けた。もちろん、彼はその時、自分と李公朴とは立場が完全に同じわけでないから、国民党がその魔の手を本当に自分にまで伸ばしてくるとは思っていなかった。彼の子供たちも、父親のようなネームバリューのある人物を、国民党が殺せるわけがないと思っていた。

15日、李公朴の殉難報告会が開かれたが、友人たちは彼が出席することに反対した。しかし彼は参加の意志を変えず、ただ話はしないことを約束した。しかし、会場で特務の騒擾を目の当たりにし、彼はもはや黙っていられなくなった。講演台に上がると、即席で演説をはじめた。これが彼の『最後の講演』である。午後5時過ぎ、彼は民主週刊社主催の記者会見に行った。この時既に四人が別の九人の特務と連動しながら周囲を包囲していたことを、彼は知らなかった。記者会見の後、彼は長男で18歳の西南連合大学外文系一年の聞立鶴に付き添われて帰途についた。そして、家からたった十数歩のところで、突然、雲南警備司令部稽査処第六実行部隊特務の狙撃にあい、血だまりの中に倒れた。聞立鶴も体に5発の銃弾を浴び、足を切断され、肺には銃弾で穴があいていた。

四、 犠牲:転換期の社会に与えた影響

聞一多暗殺のニュースは、社会と世論を騒然とさせた。聞一多は幼い頃からアメリカの教育を受けて育った知識分子であり、かつ文学と学術の世界に大きな業績を残した文学者である。それが政策に対する意見が違うがゆえに、筆と言葉で人々の思いを表したというだけで、このような目に遭うという事は、まっとうな中国人にとって受け入れがたい現実であっただけでなく、西洋的な考え方をする人にとっても理解しがたいことであった。

7月17日午前、国民党と共産党の対立の調停をしていたマーシャルは周恩来のところでこの事件を知り、そのあまりの意外さに、周とともに「驚き、そして憎悪した」という。正午、アメリカ駐在大使ストレートンは国務長官ベルナーに李公朴?聞一多の事件を報告した。夜、マーシャルは廬山で蒋介石に会い、昆明での暗殺事件によって、「アメリカの世論が蒋介石に対して不利になる」であろうこと、「暗殺の対象が中国で最も教養のある人々に向かったこと、その中の多くがアメリカの大学を卒業していること、アメリカ人は彼らの貢献を、内戦を引き起こしているそれも教養のある軍事指導者の幾人かと比較してみるであろうこと」を指摘した。18日、マーシャルは蒋介石との会談で、昆明での二度にわたる暗殺事件がアメリカ大衆の世論に大きな影響を与えるであろうことを再度もちだした。ストレートンもまたこの事件が国民党政府が知識分子と大衆の中で支配力を失っていく要因になるであろうことを指摘した。このことはアメリカサイドが正式に国民党に批判を行ったことを示しでおり、ここに至って蒋介石もことの重大性の気付かされたのであった。

アメリカの昆明駐在領事館が事件に介入したことは、客観的に見ても国民党に対して相当の圧力となった。聞一多が李公朴に続いて遭難したことは、昆明の人々を不安に陥れた。アメリカ領事館も不慮を避けるため、当日15日の夜、民主同盟昆明支部の責任者及び影響力のある教授たちを領事館内に保護し、「テロ活動を止めること」、「人身の安全を保障すること」、「政府は民主同盟及びマーシャル将軍と協力して調査隊を派遣すること」といった解決案を提示した。こういった尋常でないやり方は、外交権限を越えていたにもかかわらず、アメリカ駐在大使館と国務院の理解を受けた。このように、昆明の事件はもはや独立した事件ではなくなり、それに連なる影響はますます拡大していったのであった。国内外の世論に鑑み、受動的だとの批難を免れる為、蒋介石は雲南警備総司令部の長官霍揆彰に調査を命じ、この種の事件が続いて起らないように防止させた。続いて、蒋介石は内政部警察総署長の唐縦を昆明に派遣して調査をさせ、さらに陸軍総司令の顧祝同、陸軍総部参謀長の長冷欣、憲兵司令の張鎮の三人を昆明に送り処理の全権を任せた。そこで、霍揆彰はこの謀殺事件の経過の全貌を明らかにしようとした。国民党はもちろんその内幕を公開しなかった。兵を見捨てて将を守るため、昇格の約束と引き換えに事件に関与した二人の特務に「自首」をさせた。 8 月25日、この二人の特務は死刑を言い渡され、同日蒋介石は霍揆彰を部署変えした。二人の特務については、本来は死刑執行の前に別の死刑囚と入れ換える事に話がついていたのだが、この工作が発覚するとまずいということで、結局霍揆彰の身代わりになってしまった。

聞一多刺殺事件のこのような結末に満足できる者はいなかった。しかし、国民党が政治的な謀殺事件で二人の犯人を処罰したということは、その統治史の中で初めてのことであった。このことからも、聞一多の死が当時に与えた影響と、彼の近代中国における価値とが証明される。中国の著名な作家葉聖陶は、聞一多の事件を知ってはじめて国民党統治に対して徹底的に失望した、と語ったことがある。ある物理学者も、ずっと前に私に、聞一多が殺されたことを知ったことによって、国民党軍を憤然として去った、と語った。このような例は他にも多い。これらのことは、聞一多が仁を求めて仁を得、義を求めて義を得、死してその所を得、死してなお生き続けていることを、多方面から語っている。

聞一多殉難の40年後、あるアメリカにいる台湾の学者がこの事件を評して、「国共両党の政治闘争史の中で、聞一多の死は一つのメルクマールである」とし、聞一多の死を「国民党に対して不利な影響を生んだという意味では、その重要性は金円券の発行とその失敗にも匹敵するもの」だと見なした。また台湾の『伝記文学』は聞一多の死の影響を「北京?天津などの重用都市が陥落したことと同じほど大きい」とまで言っている。ここから分かるのは、聞一多の死が、善良ではあるけれどもまだ左右に揺れていた多くの知識分子の目を醒まさせ、そのことによって、国民党と共産党が中国の運命の決定権を勝負していた中で、双方の力関係の変化に、明かな作用を与えたことを語っている。

聞一多の殉難一周年にあたって、郭沫若は『聞一多万歳』を書き、「あめつちの下、いたるところで、無数の金の石の石膏の木の聞一多が見られることだろう」と予言した。現在、聞一多の彫像は、北京?武漢?昆明?青島そして蒙自と故郷のキ水に、次々と9個も建てられている。これは文化人としては中国で唯一無二のことである。これは、聞一多の学問?道徳が中国の近代史の中でどれほど大きな影響力を持ったかを、側面から物語るものである。

闻黎明
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